ヨーゼフ・ハイドン(Joseph Haydn 1732-1809)
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オーストリアの有名な作曲家の一人。
貧しい家での子供時代
ヨーゼフ・ハイドンは1732年3月31日、今の低部オーストリア州とブルゲンランド州の境界近くにあるローラウRohrauで、車大工の親方と、ローラウ城のハラッハ伯につかえ料理人の母親との間に生まれました。ハイドン家は決して豊かな家族とは言えず、わずかな収入でヨーゼフを含む11人の子供たちを育てなければなりませんでした。
ヨーゼフ・ハイドンは、6歳からハインブルグHainburg (ローラウから約10キロ)にある学校に通い始め、その後ウィーンの聖シュテファン教会合唱児童となり、変声りするまで独唱者として活躍しました。
無名の音楽家として
その後無名の音楽家として働き始めたハイドンの生活は、とても貧しいものでした。ウィーンのコールマルクトにある、ミヒャエラーハウスの暖房もない屋根裏部屋に住み、作曲の仕事をしていました。作曲の仕事は主に歌の教師ニコラ・ポルポラからもらい、その引き換えとしてハイドンはポルポラから作曲、歌、イタリア語のレッスンをうけていました。
ハイドンを貴族社会に紹介したのもポルポラでした。これを機にハイドンは委嘱作品も書き始めます。1757年から1758年にかけては、低部オーストリア州・ヴァインチエル城のフュルンベルグ伯(Grafen Fuernberg)のために弦楽四重奏を書き、ほぼ同時期、ピルセンPilsen(チェコ)の近くのルカベッツLukavecのモルツィン伯爵家の楽長に任命されました。
この時期、ハイドンはマリア・アンナ・ケラーと結婚しますが、彼女はハイドンの音楽に対して理解が少なく、ハイドンが彼女について話すことも余りなく、結婚生活はあまりうまくいっていなかったと言われています。この二人には子供がありませんでしたが、ハイドンと関係のあった歌手、ルイジアLuigia Polzelli の子供は、ハイドンの子供だったのではないかという説もあります。
エスターハージー家との出会い
ハイドンの生活は、エスターハージー家との出会いによって大きく変わっていきます。
エステルハーズィーの城(アイゼンシュタット)(画像左) 1761年、ハイドンはパウル・アントン・エスターハーズィー侯爵Paul Anton Esterhásy の楽団の副楽長に就任し、エスターハーズィー城Schloß Esterhásyのあるブルゲンランド州アイゼンシュタットEisenstadt に引っ越しました。ベルク教会Berg Kirche の隣にある音楽家の家に住み、彼はその後の生涯にわたって、ほぼ途切れることなくエスターハーズィーに仕えることとなります。1762年に死去したパウル・アントン侯爵の後継者のニコラウス1世侯は、ハイドンの経済的な支援者ともなり、エスターハーズィー家はハイドンにとってさらに重要な擁護者となっていきました。
1766年、楽長だったグレゴール・ヨーゼフ・ウェルナーが没すると、ハイドンはその地位を引き継ぐことになりました。この昇進によってようやく給料も上がり、同年、ハイドンはアイゼンシュタットに家を買いました。この家は今日もアイゼンシュタットのハイドンガッセ21 Haydngasse にあり、ハイドン博物館Haydnmuseumとなっています。
ニコラウス一世侯はハイドンに多くの曲を依頼し、ハイドンはこれに応えてたくさんのすばらしい曲を作曲しました。こうして作曲家ハイドンは更に才能を開花させ、彼の名は世界的に知られるようになり、パリ、マドリード、ニューヨーク、そのほかの大都市で彼の曲が演奏されるようになりました。
しかし1790年、ハイドンの支援者であったニコラウス1世侯が亡くなってしまい、後継者のアントン侯は楽長であったハイドンを解雇し、早々に年金生活へと追いやってしまいます。
イギリス旅行
年金生活に入ったハイドンは、イギリス旅行を計画し、1791年1月1日、ドーバー海峡を渡ります。彼のコンサートは、イギリスでも熱狂的に歓迎され、拍手喝采を受け、新聞でも賞賛されました。さらにハイドンは、イギリスの王侯貴族とのコンタクトを得たり、オクスフォード大学から名誉博士の称号が与えられたりするなど、大成功を収めます。
友人であったモーツアルトが、彼の語学能力ではイギリスでの旅行は無理だろうとハイドンに話したとき、ハイドンは自分の言葉は音楽であり、この言葉、つまり彼の音楽は全世界の人々が理解できるから大丈夫だ、と答えたといいます。その言葉の通りに、イギリスでもハイドンの才能は認められます。ハイドンは再度1794年から1795年にかけてイギリスに赴いています。
ウィーンでの生活
1792年、イギリスから帰国したハイドンは、ウィーンに家を購入しました。この住居は今でも、ウィーン6区のハイドンガッセ19にあります。ハイドンはその後、ほとんどの時間をウィーンで過ごしました。ハイドンを年金生活へ追いやったエスターハーズィー侯は亡くなり、彼の後継者のニコラウス二世候が再び楽長としてハイドンを雇用しますが、ハイドンはウィーンにとどまったまま作曲活動を続けました。
19世紀に入ると、彼は体調を崩し、病気をわずらい、1809年、ナポレオン軍がウィーンに侵入した直後、この世を去りました。
彼は亡くなる最期の年、ウィーン市から栄誉市民の称号を得ています。
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Date: 2006/03/31(金)
No.394
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